退職します
今年いっぱいをもって、現在勤めている会社を退職することになりました。 本日が現在の会社の最終出社日で、有休消化なしで次の会社は1月1日付入社になります。
80歳、90歳になったとき、自分のありたい姿に近づいていたい
転職の理由はこんな感じかねぇ。。。まぁ、面接でも話したから間違いではない。
ただ「お前のありたい姿ってなんやねん」って言われたら、残念ながら具体的なイメージはない。 今までの延長で仕事をしてるかもしれないし、田舎に住んで農業をしてるかもしれないし、もしかしたら縁側でぼんやりお茶を飲んで毎日を過ごしているかもしれない。 はたまた、純喫茶のマスターをやってお客さんの悩みの相談されているかもしれない。 でも、案外、アリだと思うんだよ。 コードレビューや設計レビューしてくれる純喫茶のマスターって(笑)。
その時何をやってるかは、その時に近づいたときの自分と周りの状況次第によって決まると思っている。 逆に言えば、今は何にでもなれると思っている。 40歳過ぎてるのに、まだまだとんだ勘違い野郎なのだ(笑)
ただ言えることは、周りの状況は変えられないけど、自分の状況はこの先の生き方次第で変えられると思ったわけで。 気に入らない事や奴らに文句ばかり言って状況を嘆いているだけで過ごすだけだと、この先の可能性は狭まると思った。 だから自分に後悔がないように主体的に行動していきたい。
今はソフトウェア開発者だけど、もしこのまま続けるのであれば、今持っているスキルをもっと伸ばしたいし、必要だと思うスキルを身につけたい。 と思って転職に至った次第である。
転職の決意が決定的になった出来事
転職の理由は必ずしもポジティブな理由だけではない。 今年の4~9月に携わった業務が、転職の決意を決定的にさせた。
チームを成長させながら目標を達成するプロジェクト運営
Crab Inc.が技術書典7で初頒布した"300 Multiple Choices"に寄稿したタイトルで実際の出来事である。 techbookfest.org
4月に今までの開発業務とは異なる、新しい製品開発のプロジェクトリーダーになった。 そのプロジェクトは、開発が1年半近く遅れ、ようやくファーストリリースが済んだばかりだった。 当時はデザイン思考に興味を持ってて、仕事で試してはミーティングで報告していたので、そこに白羽の矢が立った形だった。 開発者が精神的に疲弊している状態の中、親会社のPMが「次の機能は3か月でリリースする」と計画したことから指名されたのだった。
私は指名された時点で、不確実性のあるプロダクトであることから、今までやっていたウォーターフォール的な開発ではなくスクラムで開発することを宣言して、PMからも同意を得ていた。 結果的には、3ヶ月の最初の1ヶ月で機能のプロトタイプが完成していて、残りの期間では機能の充実に充てることができた。 それだけでなく、初めて計画通りに達成できる可能性が見えたことで、開発者たちが開発に対するモチベーションを取り戻していったように感じた。
ATTで運営したプロジェクトがメテオフォールによって消滅した話
ここからの内容は『理想のTOC』でLTした。詳細は非公開。 *1 「おぉ、すげぇ」って声以外にも笑いと悲鳴を5分間の間で聞くことのできた非常に濃い内容(当社比)でしたw。 *2 tocfebc.doorkeeper.jp
結論だけ書くと、開発していたプロダクトは、結局リリースされなかったのだ。 プロジェクトは開発中止となって親会社が引き取る形になり、9月までは納品物を収めるためのドキュメント作業になった。
このブログ読んでいる人には、なぜこうなったのか、意味が分からないと思うの(笑)。 現場で開発していた人間ですら、こんなことが起こるなんて普通思わないくらい、ありえない結末だったんだよ。
結果的に成果を出せなかったのだから、この期間のエンジニアとしてのポートフォリオは皆無と言っていい。 今後の自分にとっての生き方を考えていたこともあり、会社に対する不満が積もり積もった上でこの有様だったので、これ以上働き続けても自分のためにならないと判断した。
退職した今だから言えるけど、6ヶ月の間に、成功と失敗、天国と地獄、プロジェクトのライフサイクルをジェットコースターのように体験することができたのは貴重だったと思うよ。 ウォーターフォールからスクラムに変えた事例なら今どきどこでも聞けるけど、良い結果が出ていたスクラムをやめさせられた事例なんて逆に聞かないからな。*3
請負型開発から一体型開発に変えたって事例はあっても、逆はまず聞かないので、今は状況を楽しもうと思う。
— Koki Abe (@koooooooooooki) 2019年7月19日
やめることが〇〇だった(○○には会社名が入る)
今の会社に入って仕事でやりたいことを比較的自由にやらせくれたことも、この会社に入って、いや、会社に採用してくれた上司の下で働くことができて良かった事だと思う。 *4
かつて、新日本プロレスを一度退団した柴田勝頼が「やめることが新日本だった」と言った。 自分の気持ちを説明すると、この一言に集約される。
残り3週間、僕は諦めない
これから自分は自分の思う道を進むわけだけど、残されたメンバーが気がかりであって。
だって、今まで自分が作った開発インフラを理解せずにタダ乗りして「うちのグループは業務改善してるんだぜっ」ってドヤってたんだから、自分がいなくなった後はロストテクノロジーになることは予想ができるわけで笑。 メンバーに必要な事を残していくことが恩返しであり、自分の使命だと勝手に思うことにして、年内の最終日まで対応することにした。
残り3週間、僕は諦めない
— Koki Abe (@koooooooooooki) 2019年12月7日
とは言え、自分がやったことは、自分が構築した開発インフラを引き継ぐのではなく、『トレーニング』と称して何人かに開発インフラの一部の再構築を指示しただけ。
それだけで、各々が勝手に進み始めて、分からないところがあったらお互いに情報共有するようになったんだな。 結果として『私が構築した開発インフラ』ではなく『彼らが構築した開発インフラ』として引き継ぎできちゃった。
彼らはエンジニアだし、いい大人なので、やる事さえ示してあげれば、開発インフラなんて構築できちゃうのである。
逆に諦めたこともある
入社以来、TDD(テスト駆動開発)で開発してテストコードを残してきたけど、最後の最後までグループには普及しなかったなぁ。。。 こればっかりは「メンテナンスにコストを払うことになるので、今後やらないなら削除してくれ」とお願いしてしまったよ。
今までの派生開発で、不具合再発防止のためのテストケースの再利用も大きな工数削減が求められてこなかったから、 テストコードを作って開発するような強い動機にならなかったんだろうな。。。
ストロングスタイルという亡霊に縛られないこと
TDDが無駄なものになってしまったのも、彼らを指示待ち状態にしてしまったのも、彼ら自身の『しなければならない』意識と自分の『意見が強かった』ことが原因だったのかもしれない。
『しなければならない』という思考に陥ってることで、その先の価値が安易になっている気がした。 「うまくいったらどうなるの?」と質問しても、回答があまり共感ができないんだよな。。。
また『意見が強かった』ことで、彼らが本音を言えなかったのかもしれないし、実際やりたくないということも薄々感じてはいた。 もし、自分がナラティブアプローチができたら、もう少し状況が変わったかもしれないなぁ。。。
これからは、本来は自分たちで意見を出し合って、納得のいく答えを出していってほしいと思う。 そのためには、彼ら自身が縛られているもの・依存しているものに自分たちで気づいて、そこに囚われることなく意見を出すことができれば、もっと良い状況が作れるのだろう。
自分がいなくなることで、今後は強制的にそんな状況になるのかもしれないし、そうならないかもしれない。 今後は、彼らに直接関与することはできないが、外から彼らを見守りたいと思う。
最後に
って偉そうなこと書いて、何きれいにまとめようとしてるんだろ笑。 *5
次は、この会社で学んだことを新しい会社で活かして活躍していくことが、この会社にとっての最後の恩返しとなると思う。 まずは、研修期間中にクビにならないように頑張るわ。